歴史探訪の旅 Vol.2 「大森寺」
ゆっくり散策しながら、
歴史の舞台へと思いを馳せる・・・
寛永14年(1637年)、尾張二代藩主徳川光友が、生母乾の方(歓喜院)の菩提を弔うため、江戸小石川の伝通院内に創建。寛文元年(1661年)、乾の方の出身地である大森に移転しました。裏山の墓地に歓喜院の墓があります。中門に掲げられた山号の額は光友の筆です。明治8年の火災で、創建以来の建物は消失したが、2014年に本堂を再建しました。
お尉の方(乾の方)
徳川義直の正室・春姫は、輿入れしてより十年を経ても懐妊しなかった。尾張徳川家の裔を心配した生母・相応院は、義直に側室を持つ事を勧めた。しかし、儒教道徳を一義とする義直は、側室など教えに反するといって聞き入れなかった。兄・秀忠や将軍家光も義直に側室を進めたが、人倫の道に反するといって辞退していた。将軍家光の命で土井利勝が義直に談判し、ようやく落着したという。
側室には、元犬山城主・織田(津田)信益の次女で、後水尾天皇の中宮正子に仕えていた「お佐井」が召し出された。宮廷でひときわ目立つ美人で、どの角度から見ても変わらぬ美人であるため、アダ名を四方様といった。当時、京都で「なれるものならすごろくになって、いつもサイとすごしたい」と歌われた。
しかし相応院は、世継を産むためには、家康が相応院を召したように、丈夫な体の娘を侍らせた方が良い、と考えた。お城勤めのお末の中から最も体つきのふくよかで美しいお尉(じょう)を選び、お湯殿係に仕立てて義直の入浴の世話をさせたという。相応院の目論見通り、直ぐにお手付きとなり、寛永2(1625)年に尾張家2代藩主となる光義(光友)が生まれました。
その1年後に、お佐井の方が鶴姫を出生しています。
生年不詳〜1634年没。尾張徳川家初代当主・義直の側室。
乾(いぬい)の方とも呼ばれ、郷士・吉田甚兵衛の姉。
所在地:名古屋市守山区弁天が丘809番地
TEL:052-798-0289
山号:興旧山
宗派:浄土宗
創建年:1637年
開山:信誉上人
開基:徳川光友
正式名:興旧山歓喜院大森寺
山門
山門脇の碑と山門をくぐり突き当たり左が中門
中門
再建された本堂
再建された本堂
歓喜院の墓
義直公とお尉が出合ったエピソード
名古屋市守山区の金城山は、元は八竜山と呼ばれ、その元は大森山とも呼ばれていました。大森の地名は、大きな嶺の意を指すとの事。お尉の方は、この大森付近に生まれました。ここで義直公と出合ったエピソードが、伝承されています。
義直公が瀬戸水野山へ狩りに行った帰り、大森山を通りかかりました。農家の庭先で娘が臼(うす)で麦をついていたが、藩主一行を見て驚いた娘は、庭で体が不自由な父親が行水しているのを見て、父を盥(たらい)に入れたまま家の中へ運びました。これを見た義直公は、こんなに力持ちの娘ならば、立派な跡継ぎを産むであろうと思い、城に召し抱え、後に側室にしました。